よわつよ論 川村慎 編

ラグビー選手会3代目会長であり、 「よわいはつよいプロジェクト」の発起人のひとりであり、 現役プロラグビー選手、 川村慎。 昨シーズン、 キャリア13年目にしてリーグ通算100試合出場。 チームも過去最高の順位ベスト3。 ラグビー選手としてのキャリアは順風満帆に見えますが、 みずからの「よわさ」と何度も向き合ってきた 「苦悩の連続」 の日々だったと語ります。 10年間、 ベンチスタート。 チームも最下位の低迷。 34歳でチームから戦力外通告。 アスリート・川村慎の胸の内。 この男のトライは、 まだまだ、 つづく。

(取材・文 吉谷 吾郎)


川村 慎(かわむら しん)プロフィール

1987年8月6日生まれ、東京都調布市出身。幼少期にハワイ、香港で過ごす。慶應義塾大学法学部政治学科卒、ラグビー部在籍時に全国大学選手権準優勝。卒業後2010年博報堂入社、同年NECに転職しNECグリーンロケッツ東葛に加入。現在は横浜キヤノンイーグルスに所属するプロラグビー選手。2016年に日本ラグビーフットボール選手会を立ち上げ、副会長4年・会長2年を歴任。会長退任後はJapan PDP/よわいはつよいプロジェクトなどを中心に活動し、アスリートが幸せに暮らすためにできることとスポーツの力を社会に還元していく仕組みを模索中。NTT JAPAN RUGBY LEAGUE ONE 2022-2023 シーズンにてリーグ通算100キャップ達成(100試合出場)

「ただラグビーができるだけの奴」

ーー:
早速ですが、 シンさんがそもそもラグビーをはじめたキッカケは?

川村:
ダイエットのためでした(笑)。 小学校3年生のとき、親の仕事の都合で香港へ行って、 現地の食べ物が美味しすぎて太ってしまい 「これはまずい」 と親が連れて行ってくれたのが香港のラグビースクールでした。 サッカーは人気で、 定員オーバーで。

ーー:
そこでサッカー少年になっていたら、 どうなっていたんでしょうね‥‥初めてやったラグビー、 どうでしたか。

川村:
いろんな国の友達ができるし、 たのしかったです。 小学校5年のときに日本に帰ってきてからも家の近くのラグビースクールに通って、 中学校に入ってからもラグビーをつづけて。 当時から体重90kgを超えてたんで、 活躍できてたのしくて仕方なかったです。

ーー:
中学生でその体格なら無敵ですよね。

川村:
まさに(笑)。 高校でも高校1年の夏から同じポジションの先輩を差し置いて、 一軍の試合に出られました。 そこそこ勉強もできたし、 運動もできたし、 大きな挫折なんてない、 やることすべてがうまくいっていたような感覚の10代でした。

ーー:
はい。

川村:
でも、 だんだん「井の中の蛙」ということに気づきはじめます。 高校3年の引退試合が、 「あれ、なんかおかしいぞ」のはじまりだったかなと、 振り返ってみて思います。

ーー:
なるほど、 なにかあったんですね。

川村:
その前年の高校2年のとき、 当時、 同じ神奈川県では「絶対王者」と言われていた桐蔭学園に準決勝で勝ったんです。 いざ、決勝は法政二高。 そこで自分は「蜂窩織炎」という病気になってしまい、 直前で試合に出られなくなってしまって。 車椅子に座ってチームメイトたちが闘う決勝戦を観戦しながら「なにしてんだ俺」と涙がとまりませんでした。 主力の3年生を欠いていたことも影響したのか、 「花園」まであと一歩のところで僕らは敗退してしまいました。

ーー
そうだったんですか。

川村:
高校3年、僕はキャプテンになりました。 昨年の悔しさを絶対に晴らしてやるんだという気持ちでチームを引っ張り、 春シーズンもチームの調子はよかった。 夏を越えて、いざ花園予選がはじまり、 僕らはシード校として3回戦から出場。 ところが、 終盤にペナルティーゴールを決められ逆転、 1点差で負けました。 僕らはみんな放心状態。 文字通り、 言葉が出ませんでした。

ーー:
そういうことが起きるのも、 学生の試合ならでは、 と言いますか‥‥。

川村:
チームは負けてしまったけれども、 個人としては神奈川の選抜にも選ばれていてU-17の候補にも入っていたので、 表向きには3回戦敗退のショックと精神的なバランスを取っていましたけど、 リーダーとしての自分の素質のなさ、 仲間からの信頼や人望には自信がなかったのは客観的な事実でした。 「ただラグビーができるだけの奴」と思われていたと思います。

ーー:
今のシンさんからは想像しにくいですが、 そうだったんですね。

川村:
はい、 当時の自分を知る仲間はそう思っているはずです。 それで、 大学に入って1年生の時は高校と同じナンバーエイト、 フランカーのポジションをやっていました。 対抗戦にも出させてもらったのですが自分たちの代が4年生になる時のことを考えると、 フロントローが少なかったので2年生になる時にルースヘッド(1番)にポジション変更しました。 こちらでもその年から試合に出させてもらって、 活躍することができました。

ーー
ポジション変更して、 1年生から公式戦出場。 すごいです。

川村:
そういう選手は、 上級生になるとキャプテンなどの役職を任されることがありますけど、 僕は自分から 「自分がキャプテンをやらないほうがいい」 と言いました。 高校時代を振り返ってリーダーに向いていないと思っていること、 また責任を背負って負けることへの恐怖みたいなものがあったんです。 なにより、自分が周囲の仲間からどう見られているかわかっていて、 端的に言えば、 ここでも「孤立」していたように思います。 でも、 そういう仲間たちに対しても、 「俺は好かれたくてやってるわけじゃない」とか 「結果がすべて」 と虚勢を張っていた、 そういう大学4年間でした。

ーー:
たしか、結果的にキャプテンでも副キャプテンでもなく、 フォワードリーダーという立ち位置だったんですよね。

川村:
そうです、 そうです。
学生当時の自分を一行で表すならば、 「実力でねじ伏せて、 ぐうの音も出ないほどのド正論をぶちかますマン」 (笑)。 矢印を常に自分に向けてストイックに自分を追い込むのは得意だったし、 実際に自分がやれる努力は工夫して全てやってきたつもり。 高校時代は 「THEストイック」 で、 大学時代はキャプテンではない責任感の軽さや部活の伝統的な雰囲気もあって、 人としてのユーモア、 柔らかさも覚えましたが、 それでも「怖い」 「追い込む人」 「たまにオモロイ」 という存在だったんじゃないかと思います。

ーー:
最終学年では、 全国ベスト4位で引退。 社会人でもラグビーをやろうと思ったのはどうしてですか?

川村:
社会人になったら、 ラグビーは辞めようと決めてました。 その理由は、学生のときに社会人でもラグビーをやるという考えがあると、 今この瞬間に燃え尽きられないと勝手に思っていて、 退路を断つつもりで、 ほとんどの学生と同じように就職活動をすることにしたんです。 モノを生み出す仕事がしたくてマスコミを受けて、ご縁のあった広告代理店に入社しました。

ーー:
それだけラグビー選手として活躍しながら、第一線を退いて民間企業に会社員として入社することにした、 と。

川村:
就職したその会社にはラグビー部があったんですけど、 もちろん入部する気はなく、 勧誘も断っていました。 とにかく「仕事しかやりたくない」と思っていたので。 けれど、先輩たちから 「社内外につながりができて仕事にも活きるよ」 と言われて、 会社のラグビー部に入ることにしました。 ただ、学生のときのようにトレーニングなど万全な準備をした上で試合ができるわけがない。 「こんな向き合い方でやるスポーツじゃないよ、 ラグビーって」 と思ってしまいました。 グズグズとラグビーをつづけるくらいならば、 本気でやってしまったほうがいい。 国内最高峰リーグであるップリーグ(当時)でプレーできる会社への転職を決意したわけです。

ーー:
まだ入社して半年くらいで、 大きな決断です。 迷いはなかったのでしょうか。

川村:
もちろん、 一度ケジメをつけたラグビーだから、 迷いがなかったわけじゃありません。 ただ、 まだ数ヶ月しか社会人として働いていなかったけれど、 「この仕事って、今じゃなくてもできるかもな。 俺じゃなくてもいいかもな」 と思ったことも事実でした。 「今しかできないこと」 「自分にしかできないこと」 であるラグビーを、 もう一度、 本気でやる覚悟ができたというか。

ーー
そして、 NEC(現:グリーンロケッツ東葛)に社員選手として入りました。

川村:
大学時代とは違う新しいスタイルでやりたいと思い、 NECを選びました。 いわば、 ないものをほしがった、 という感じで。 一度、 ラグビーから離れていた分、 ラグビーをやれる喜びのようなものは大きかったように思います。

ウマイ、ヘタでやっていない。
全身全霊を賭けたかどうか。

ーー:
いざ、 新しい環境でラグビーをはじめてみて、 どうでしたか。

川村:
やっぱりトップカテゴリーのレベルは高くて、 3年目からやっとリザーブ入りすることができましたが、 ないものをほしがった12年間は、 ずっと 「修行」 でした‥‥(笑)。

ーー:
修行。 つらかった、 ということですよね。

川村:
はい‥‥実は27歳くらいのときに、 とある上位チームの関係者から誘われたことがあったんです。 正直、チームのスタイルはそちらのほうが自分に合っているかも、 と、 こころが揺れましたが、 ここでも自分のバカ真面目な性格が出てきてしまって。 途中で環境を変えるのは、 負けを認めたみたいで嫌だと思ったんです。 周りのせいにして辞める人間が好きじゃないし、 チームもベスト4から低迷させてしまっている自分が抜けるのは 「逃げ」 だと思って‥‥チームの成績を伸ばしてから出ていくのが礼儀だと、 勝手に思っていました。

ーー:
そんなことがあったとは‥‥。 「THE・ストイック」の自分が、 いつも 「あえて、苦しいほうを選んでしまう」 と言いますか。

川村:
振り返ってみて思うのは、 たしかに苦しかったですけど、 その期間で人間的には本当に成長できました。 それまでの人生で味わったことのないような、 大きな挫折を経験できたので。 チームは勝てない、 自分は試合にも出られない、 でも自分自身としてはずっと頑張っている‥‥ずっとそういう期間でしたから。 周りからも 「苦しそうだよ」 と心配されて言われていたくらいです。

ーー:
そんな中、 社会人キャリア12年目でチームを変えて、 プロ選手になりました。 プロへの転向、 どんな理由があったのでしょうか。

川村:
ラグビー界に戻ってきてから、 かなり早い段階でプロ選手にはなりたいと思っていました。 やるなら思いっきりやりたいと思って戻ってきたこともありましたし、 性格的にもそっちの方が向いていると感じていたので。 実際に所属チームであったNECにもそのように伝えていましたが、 当時は会社の規定で日本人選手のプロ契約が認められていなかったのでなれませんでした。 ただ、 トップリーグからリーグワンになるタイミングでチームの方針が変わり、 日本人プロも契約ができるようになったのでNEC在籍最後の年はプロ契約でプレーすることができました。 チームの移籍に関しては単純にクビになったことがきっかけです。 まさにプロの洗礼を初年度で受けた形になりました(笑)。

川村:
それで次のチームが見つからなかったらもう引退かなぁと思っていたんですが、 幸運にも声を変えていただけるチームがいくつかあり、 その中で1番レベルの高いチームが今のチーム(横浜キヤノンイーグルス)だったので、 自分自身ここからもう一度大きなチャレンジができると思って入団を決めました。

ーー:
社員選手からプロ転向を決めた勝負の年。 結果的に、 リーグ戦通算100試合出場を果たし、 チームも過去最高順位のリーグ3位。 絵に描いたような 「成功」 に見えますが、 自分ではどう感じていますか。

川村:
今になって感じるのは、 つらかった12年間のことを当時の自分は 「成長の余白」 だと捉えてました。 でも、自分自身がたのしく感じられていたかというと、 そうではなくて‥‥自分らしくいられるかどうか、 スタイルが合う、 合わないとかあるんじゃないかと。 今は自分がチームから必要とされている感覚があって、 やりがいがあります。

ーー:
すこしいじわるな質問かもしれないのですが、 それは昨シーズン、 チームの 「結果」 が出たからそう思っているだけで、 仮に負けていたとしても、 そう思えていると思いますか。

川村:
もちろん。 イエス。
はっきりと言えるのは、そういう次元でラグビーしていない、 というか。 画家の岡本太郎さんが、「絵を『ウマイ』『ヘタ』でやっていない。 全身全霊を賭けたかどうか。 自分をそこに出し尽くせたかどうかで、 絵を描いている」 というような言葉を残されていて、 自分もそういう主義でやっています。

ーー:
あぁ、 いい言葉ですね。 なるほど。

川村:
だから、 どんな困難がやって来ても、 「俺は、 まさにこういう、 トップレベルのヒリヒリした勝負の感覚を味わいたかったんだ」 と自覚できているんです。 もちろん勝ったら嬉しいですけど、 勝敗は結果のひとつですし、 終わればその先の勝負がまたつづく。 「じゃあ、 ゴールってなに?」 という話です。 たとえば、 昇格したい、 日本一になりたい、 連覇したい‥‥、 代表選手になりたい、 代表でレギュラーになりたい‥‥どこまでいっても上昇の螺旋があって、 どこまでいっても人は満足できないのなら、 今この瞬間に全力を出し尽して、 勝負できているこの瞬間、 この場所が俺は好きなんだと捉えられるようになりました。

ーー:
たしかに、 どこまでいっても目標は消えないし、 達成できるかコントロールできないですけれど、 この瞬間に全力を出して、 今の自分の環境に感謝したり、 好きでいたりすることはできますよね。

川村:
まさに。 だから、 どんな人がライバルとしてチームに来たとしても、 たとえ世界トップクラスの選手だとしても、 今はその人とラグビーできること自体が楽しい。 「これが自分のやりたいことでしょ」 って腹落ちしています。

ーー:
わ、 そのメンタルの状態は、 とても清々しい境地ですね。

川村:
もちろん試合に出たいし、 出られないのも悔しいけど、 「だからなんだ」っていう感じです。 一般企業を辞めたときも 「俺は、今この瞬間がすべて」 と口では言っていたんですが、 あの時は言葉だけでした。 勝敗に一喜一憂していたし、 試合に出て活躍してチヤホヤされたかった(笑)。

ーー:
「若さ」もあるんでしょうね(笑)。 何者かになりたい、 認められたい、 っていう。

今しかできないこと。
自分にしかできないこと

川村:
「リーグ戦通算100試合出場」って言っても、 そのうちの半分くらいはリザーブでした。 ずっと二番手として、 煮え切らない期間が長かったわけです。 どんどん頑なになって、 誰とも喋らないようにして塞ぎ込んでしまって、 黙々とバチバチやっていました。 それでも、過去の自分の経験がすべて通用しないし、 監督からの評価もまったく変わらない‥‥。

ーー:
真っ暗なトンネルを歩いているような。

川村:
はい、 スタメンで出場していた選手を超えてやるんだ、 とムキになってやってきたわけです‥‥ところが、 その先輩は、 「嫁さんが地方に帰るから、 俺もこのタイミングでラグビー辞めるわ」 と、 さらっと引退したんですよ(笑)。

ーー
拍子抜けですね(笑)。
トンネルを抜けたキッカケと言いますか、 シンさんのマインドが変わったキッカケってあったんですか?

川村:
チームメイトと話をするようになったことです。 もともと仲間とお酒とかコーヒーを飲む時間は嫌いじゃなかったんですけど、 やっぱりどこかで 「この時間にラグビーの練習したほうがいいのにな」 と思っている自分がいたんです。 自分たちはラグビーをするためにここに集まっているんだから、 と。 でも、 いくら努力しても認められないで悶々としていたある時、 ふと、 「どうして自分は同じポジションの先輩に勝てないんですかね?」 といろんな人に質問しはじめたんです。

ーー:
そういう 「悩み」 を人に話すようなタイプではないシンさんが。

川村:
「THEストイックのど正論ぶかますマン」ですから(笑)。 そしたら、 です。 みんなから 「ここは評価されているよ」 とか 「タックルが苦手なら、 得意なものを伸ばせば?」 とか 「この部分ではその先輩に勝ってるから、 そこで勝負したら?」 とか、 いろんなフィードバックをもらえて。 そのどれもが発見ばかりで、 他者を通じて自分を知れたと言うか、 自分の気持ちが整理されたし、 自分の強みを認めてもらえた嬉しさがありました。

ーー:
あぁ、 それは嬉しいですね。

川村:
なにより、 自分の内面を知ってくれる人が増えたことが大きかったです。 それをキッカケに好循環が生まれた、 というか、 まさに 「よわいはつよい」 で、 よわさをさらけ出せたことでお互いのことを理解し合えてプレーにもいい影響が出たように思います。

ーー:
選手会も発足時からずっと背骨を支えてきたひとりが、 シンさんです。 会長も経験しましたが、 そういったプレーヤーとしての苦悩がありながら‥‥大変だったと思うのですが。

川村:
副会長を4年やっていて、 次の会長を決めるときに自分が候補に上がって、 改めて「どうして自分は選手会の活動をやっているんだろう?」と、 振り返る時間をつくたんですね。 そこで、 社会人になって一度ラグビーを辞めて、 再びラグビー界に戻ってきたときの感覚に近いと思いました。 つまり、 「今の自分にしかできない」 と思ったんです。 短期間ではありますが、 会社員として普通に仕事をして辞めて戻ってきたというキャリアチェンジの経験、 ラグビー業界を超えた広い視野を持って話せる人がこの業界にいない。 こういう椅子に座るべくして、これまでやってきたんだと思って、 会長を引き受ける決意をしました。

ーー:
今しかできないこと。 自分にしかできないことかどうか、 という視点でしたよね。

川村:
はい。 ラグビー選手として、 日本代表になりたいは大前提で、 選手たちが誇りを持てるような業界や競技に変えていくことは自分のためでもあるし、 日本のラグビー業界全体のためでもあるし、 ラグビーをまたやりたいと思った自分がやれることをやるのは 「必然」 だと思いました。 会長は2年やりましたが、 今はもっと自分のやりたいことに注力できていて、 選手会の活動のおかげでつながった人との出会い、 自分の人生のミッションだと感じるような実現したい未来がたくさんあること。 今はめちゃくちゃありがたいです。

ーー:
現役選手でありながら、 これまでの経験を活かしたいろいろな活動もされていて、 今がプロラグビー選手としていちばん脂が乗っている、 って感じですね。

川村:
いつまでできるかわかりませんけど1年1年、 一瞬一瞬を積み重ねていきたいと思います。

ーー:
たのしみです。 応援しています。 それでは、 今日は長い時間のインタビュー、 ありがとうございました!

川村:
こちらこそ! ありがとうございました!